
車の中の時間
人が死にたいと思うときは、どんなときだろうか。
大きな失敗をした時だろうか。自分の人生に絶望したときだろうか。大事な人が自分の前から居なくなった時だろうか。後悔の多い自分の人生を振り返ると、死んでしまいたい程に落ち込むことが何度もあった。けれど、自分が本当に1番死んでしまいたかった瞬間は、その落ち込みの中には無い。
同居している友人と一緒にラーメンを食べに行った。夕方が終わり夜が始まる頃だった。休日だったが、何でもない普通の日だった。目的の店が少し遠いからと、彼は車を出してくれた。何度も行ったことのあるいつものラーメン屋で、いつも通りに美味しいラーメンを食べて、店を出る頃には辺りはすっかりと暗くなっていた。あとはまた車に乗って、家に帰るだけのよくあるいつもの休日だった。
その日はなぜか、彼の運転する車に揺られながらぼんやりと「今日はまだ帰りたくない」と思った。そのことを伝えると、満腹で機嫌の良かった友人は快く迂回した道を選んでくれて、いつもより少し遠回りをして帰ってくれた。ほんの少しの時間の小さなドライブだ。お互い話すことは特に何もない。車に乗っていると外の音は閉ざされて、彼の陽気な鼻歌で車内が満たされていく。小さい頃の記憶だが、父は運転しながらよく歌を歌ってくれていた。幸福な記憶だ。そしていまも、その幸福と同じ匂いのする車に乗っている気がした。自分の中に湧いた多幸感がどんどん加速していく。窓から見える景色もどこか遠い他の誰かのもので、通り過ぎていく風景も、対向車も、偶に聞こえるウインカーの音も俺からは遠く離れていった。この世界には、俺と、友人と、彼のうたう歌だけになった。この小さな普通の日常が自分にとってはとても大きな幸福のように感じられ、ままならない自分の人生で享受できる幸福の最大点は此処なのだと、この小さな車の中だけが世界の全てのようだと本気で感じていた。
この幸福を終わらせたくない。このまま突然、大型トラックと衝突して死んでしまったら。そうしたら、この小さな車の中が永遠になるかもしれない。終わらせたくないからこそここで終わりにしてしまいたい。この幸福な時間を世界から切り取って全部車の中に閉じ込めてしまいたい。
そしてその時気付いた。自分が死んでしまいたいと感じる瞬間は絶望した時ではなく、幸福に包まれていると強く実感した時だ。
そんな不謹慎なことを考えている人間を隣に乗せているとも知らずに、友人はゆるやかに遠回りをしながら俺達を家へと運んだ。車はゆっくりと見慣れた住宅街に入り込む。もうすぐこの小さなドライブは終わる。
俺と友人は仲の良い普通の友人で、ただ、それだけだ。彼は自分の人生に不満はなく、毎日を楽しんで充実させて生きている。友達もそれなりに多く、家族を大切にしている豊かな人間である。そんな人間が、突然精神不安定になった隣人の自己中心的で感傷的な衝動に巻き込まれ殺されるべきではない。
自宅の駐車場に着き、ドアを開けると外の空気の匂いがした。車から降りドアをゆっくりと閉めて、俺は“普通”に戻った。