自分用のメモです。

投稿者: itou110

車の中の時間

 人が死にたいと思うときは、どんなときだろうか。
大きな失敗をした時だろうか。自分の人生に絶望したときだろうか。大事な人が自分の前から居なくなった時だろうか。後悔の多い自分の人生を振り返ると、死んでしまいたい程に落ち込むことが何度もあった。けれど、自分が本当に1番死んでしまいたかった瞬間は、その落ち込みの中には無い。

 同居している友人と一緒にラーメンを食べに行った。夕方が終わり夜が始まる頃だった。休日だったが、何でもない普通の日だった。目的の店が少し遠いからと、彼は車を出してくれた。何度も行ったことのあるいつものラーメン屋で、いつも通りに美味しいラーメンを食べて、店を出る頃には辺りはすっかりと暗くなっていた。あとはまた車に乗って、家に帰るだけのよくあるいつもの休日だった。
その日はなぜか、彼の運転する車に揺られながらぼんやりと「今日はまだ帰りたくない」と思った。そのことを伝えると、満腹で機嫌の良かった友人は快く迂回した道を選んでくれて、いつもより少し遠回りをして帰ってくれた。ほんの少しの時間の小さなドライブだ。お互い話すことは特に何もない。車に乗っていると外の音は閉ざされて、彼の陽気な鼻歌で車内が満たされていく。小さい頃の記憶だが、父は運転しながらよく歌を歌ってくれていた。幸福な記憶だ。そしていまも、その幸福と同じ匂いのする車に乗っている気がした。自分の中に湧いた多幸感がどんどん加速していく。窓から見える景色もどこか遠い他の誰かのもので、通り過ぎていく風景も、対向車も、偶に聞こえるウインカーの音も俺からは遠く離れていった。この世界には、俺と、友人と、彼のうたう歌だけになった。この小さな普通の日常が自分にとってはとても大きな幸福のように感じられ、ままならない自分の人生で享受できる幸福の最大点は此処なのだと、この小さな車の中だけが世界の全てのようだと本気で感じていた。
この幸福を終わらせたくない。このまま突然、大型トラックと衝突して死んでしまったら。そうしたら、この小さな車の中が永遠になるかもしれない。終わらせたくないからこそここで終わりにしてしまいたい。この幸福な時間を世界から切り取って全部車の中に閉じ込めてしまいたい。
 そしてその時気付いた。自分が死んでしまいたいと感じる瞬間は絶望した時ではなく、幸福に包まれていると強く実感した時だ。

 そんな不謹慎なことを考えている人間を隣に乗せているとも知らずに、友人はゆるやかに遠回りをしながら俺達を家へと運んだ。車はゆっくりと見慣れた住宅街に入り込む。もうすぐこの小さなドライブは終わる。
俺と友人は仲の良い普通の友人で、ただ、それだけだ。彼は自分の人生に不満はなく、毎日を楽しんで充実させて生きている。友達もそれなりに多く、家族を大切にしている豊かな人間である。そんな人間が、突然精神不安定になった隣人の自己中心的で感傷的な衝動に巻き込まれ殺されるべきではない。
 自宅の駐車場に着き、ドアを開けると外の空気の匂いがした。車から降りドアをゆっくりと閉めて、俺は“普通”に戻った。

□日記

オジギソウ

 小学校に上がったばかりの頃、オジギソウという植物が好きだった。手で触れると葉が一枚一枚順に閉じて下に垂れる反応の様子が子供心をくすぐり、鉢を買ってもらって自宅で何度も何度も触った。
「真紘君、お水はそんなにあげなくても良いんだよ」と周囲から心配されることもあったが、まだ子供だった自分は、“沢山水をあげたほうが良いに決まっている”と思い込んでおり、熱心に毎日何度も水をあげ、見事に根腐れを起こし枯らしてしまっていた。後になって知ったが、オジギソウは寒さに弱く日本の冬を越すことが出来ないらしい。そんなことも知らずに何度もめげずに購入しては枯らしてを繰り返した経験がある。

話は変わって、自分には昔、精神が不安定な方から異常な執着を受けることがあった。
オンライン上で同じゲームで一緒に遊んでいくなかで、毎日長時間通話をしたりしているうちに、依存関係へ発展してしまっていたのだと思う。最初は普通の友人のような関係でも、そういう方々の場合は徐々に度が過ぎた我儘な態度や過度な要求をしてくるようになり、最終的には相手を完璧にコントロール出来ないことに苛立ち、自分の前から居なくなってしまう。
そんな自分勝手に振る舞う人のことを過度に気をかけなくて良いんだよ、と言ってくれる友人も居たが、感情のコントロールが出来ずに助けを求める人がいざ自分の目の前に現れるとどうしても声をかけてしまうし、過度な要求にも出来る限り応えてしまっていた。そしてそれが相手の要求をどんどんエスカレートさせて、最後は破綻する。
ある時そうした自分の未熟な行動が、オジギソウに水をあげ過ぎてしまう子供の頃の自分と少し重なっているのではないかという皮肉に気付いた。
気になってつい触り過ぎてしまうし、そのほうが良いのかもしれないと、つい水をたくさんあげてしまう。
そうやってまた“オジギソウを育てている”のではないか、と。

そんな出来事から数年、またしても“オジギソウの彼ら”に似た人物が現れた。特徴や振る舞い、他者に対しての依存の仕方が酷似しており、これまでの事情を知っている友人は「またオジギソウを育てているんじゃないの」と茶化しながらも心配してくれた。
もう昔の自分ではない。適度な距離を保ちながら、友人としての関係を築いていけたらと考えた。そしてそれが楽しく、長く続くものでありますように。
そんなことを考えながら、趣味で描いている創作の資料として誕生花を調べていたついでに、ふと、身の回りの人物の誕生花を調べた。
彼の誕生花は奇遇にも、オジギソウだった。

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