自分用のメモです。

投稿者: itou110

□ 2LDKに2つの惑星系

2LDKに2つの惑星系


 同居している友人と同居を始めたばかりの頃、彼と俺は相性が悪いなと思う瞬間が多々あった。
 彼は親しい友人グループの中の1人で、これまで会った誰よりも気難しい性格をしていた。プライドが高くて自分に自信があり、頑固で、大多数に支持される流行とは少し違った自分で在りたいといった逆張り気質を持ち、他者に対する思いやりが薄くコミュニケーション能力に偏りのある自己中心的な性格や振る舞いをする偏屈な人物であった。俺はその癖の強い性格を知り合った当初からとても気に入っていた。
彼は自分のことが大好きな人間だった。以前複数の友人達と「生まれ変わったら何になりたいか」という雑談をした際は、会話に参加している全員が芸能人や動物など各々好きに何個も挙げて様々な想像を膨らませていた。そんな中で同居している彼だけが唯一「生まれ変わっても自分がいい」「他の何にもなりたいと思わない」と答えた。別の機会にて「人生やり直せるなら何がしたいか」という話題では皆が「違う高校、大学に行きたい」「子供の頃に運動を習っておけばよかった」などと現在の自分とは違う自分の人生に想いを馳せたが、彼だけは「俺は今と全く同じ人生を歩む」「今の人生から変える必要がない」と堂々と言い切っていた。 自分の人生に満足していて、自分自身のことを好きだと表明することに躊躇わない。その自己肯定感の高さや自信ある振る舞いは、沈みがちな特性のある自分にとっては衝撃的で非常に興味深いものだったのだ。彼の癖のある特性を語ると彼が独善的で非道な人間のように聞こえてしまうこともあるが、嘘がつけない正直な性格や、とても情が深く仲間思い/家族思いな面、案外人懐っこく寂しがりな面など、良いところや意外な一面を見つけていくことも友人として非常に楽しいものだった。
 折角一緒に住み始めたのだから出来るだけ相手に歩み寄りたいと俺は考えていたが、彼が俺に歩み寄ることは非常に少なかった。俺は彼のことが面白く彼の様々なことに興味があったが、彼は彼自身に興味があり、俺に興味が無い。同じ家に住んでいるといっても多くの時間を各々の自室で過ごす為、一緒に居る時間そのものは短く、会話をするのは一緒に食事をとる時くらいで、その僅かなコミュニケーションにおいても自分本位に振る舞い、俺の発言に対して否定的な言葉で返すことも多かった。俺は一連の彼の態度や行動を、それでも良いと考えていた。社交辞令の共感の言葉に意味は無いという彼の考え方に賛成していたし、自分とは全く異なる性質を持つ人間の、何も包み隠さない正直過ぎるコミュニケーションを面白く興味深いと思っていたからだ。
しかし、そう考えていたにも関わらず次第に彼のそういった自分中心の振る舞いに傷ついたり寂しさを感じてしまうようになっていった。彼の性質を理解して納得していたはずなのに俺自身の余裕が無くなってくると、共同生活を円滑で楽しいものにしようと努力をしているのは自分だけなのではないかと、些細なことでも負担を感じるようになってしまっていたのだ。ある時、夕食に彼の好きなラーメンを食べに行くことになり、人気店であるその店の行列に並ぶ間に少し雑談でもしようかと会話を始めた。けれどその日はどんな話題を振っても1から10まで全て興味が無さそうな返事や否定的な言葉が返ってきて、その時期調子が傾いていた自分は流石に挫けて悲しくなってしまった。食後はすぐに店を出て無言で帰路を歩いていると、ほとんど満月に近い大きな丸い月が明るく澄んでよく見えていて「今日は綺麗に見えますね」といつもなら話していたかもしれなかったが、その時は月が綺麗なことに対して少しも否定されたくないという感情のほうが大きくなって話しかけずに無言で帰る選択をした。きっと今日の寂しさは自分の中にずっと残ってしまうだろうから、記憶の中の月くらい誰の評価もつけずに俺の中で綺麗に輝き続けるべき.などと、ひとりいじけたことさえ考えていた。この時の月はうまくいかずに沈んでいた頃の思い出の1つとなった。

 俺がどんなに調子が落ちて沈んでいても、彼は俺に対しての態度を変えることはなかった。察してもらおうとも思っていなかった俺は共同生活に対しての苦言を直接本人に伝えた。彼は俺の話を聞いて無神経な態度や振る舞いについて理解をし、改善を試みる約束をしてくれた。俺はそれで話が終わると思っていたが彼はそれはそれとして、と続け、「お前はお前で最近2人で暮らす事に意識が傾き過ぎている」「俺は勝手に充実した人生を送り続けるからお前もお前の人生を充実させ続けろ」と言った。
俺は最初何を言われているか分からなかったが、話を聞いているうちに段々とその指摘を理解していった。俺は他者との共同生活をより良いものにする為には、より良いものにしようと意識し努め続けることが最も肝要と考えていた。しかしそれは円滑で快適な共同生活を“続ける”為の努力であり、その事に対して常にリソースを最優先で割こうと考え過ぎている.という指摘だった。そして、「リソースを分け与えた分だけより良い共同生活になっていく」という考え方ではなく、「2つの人生の交点が共同生活であり、2つの人生の充実の幅が広いほど共同生活の充実も大きくなる」と考えているという話だった。(図1)。

図1 よりよい共同生活に対しての考え方の違い

俺は同居人との暮らしをよりよいものにする為に、夕食は彼の好きなものを食べて、彼の苦手な皿洗いと洗濯と風呂掃除は俺がやって、車内で流す音楽は彼の気に入った曲をかけて、出掛ける時間や家に帰る時間をこまめに連絡し合って、楽しく談笑できるように相手をよく知り、その為に沢山会話をしなくてはと常に思っていた。そのひとつひとつは効率の良い分担だったり相手への思い遣りや愛情かもしれないが、行き過ぎてしまうと擦り減ってしまうし、押し付けてしまうと誰の為でもなくなってしまう。俺は彼のご機嫌度を上げることを気にかけていつの間にかそればかり優先し、過敏に傷付き沈み、この共同生活の良し悪しを彼の機嫌ばかりで量るようになってしまっていたかもしれないと気付いた。リソースを割いた分だけよりよい暮らしになると無意識的に漠然と考えてしまっていたかもしれない。同居人が提唱してくれた考え方は、自立した人間同士の対等な関係の構築方法として理想的なかたちであると俺は納得した。


 彼は彼の宇宙の中心にいて、その周りで好きなものや好きなこと、彼に関わることが公転している。彼が太陽系の太陽だとしたら、一番近い水星や金星が彼が真剣に取り組んでいるFPSゲームや仕事、地球や火星は家族や好きな音楽…と順に彼の人生の優先順に好きなものの惑星が周っていて、同居し始めたばかりの頃の俺はその公転に合わせて自分も周る必要があると思っていた。どの星よりも遠く、軌道にずれがあり近づいたり離れたりしながらそれでも他の小さな星々よりは惑星な気がしていた準惑星、冥王星だった。自分の自転もしながら遠くで248年もかけて一周しなきゃいけないことが俺は大変だなと思っていたし、あまり日が当たらないことを勝手に悲観し寂しさを感じ、勝手に消耗していたのだ。(図2)。

図2 同居人を中心に公転する惑星系

 しかし次第にその考え方ではなくなっていった。彼に合わせて周るのではなくて、自分も自分自身の宇宙の中心である。という考え方に変わっていったのだ。(図3)。自分の惑星系を持って自分がその中心になると、俺の近くには最愛の妹についてだったり、美味しいグルメやスイーツ、高校で夢中で打ち込んだ弓道や芸術などの専攻の惑星が回っていて、好きな漫画や映画も近くで周っている。そして隣を見たらすぐ近くで同居人の惑星系が観測できるのだ。
俺は沈んでしまっていた時期に、他の誰でもない俺自身が自分の人生の中心に居ることを忘れてしまっていた。忘れていたけど、そういえば俺は絵を描いたりしたかったんだった。同居人が苦手だからと選択肢から外れていたが、俺は紅茶も結構好きだということを思い出したりした。そして俺の惑星系が少しずつまた俺を中心に周り始めると、同居人はかつてより俺に対して興味を示すようになった。俺は、彼は俺に興味がないのだと思っていた。しかし、俺が自立した自己を持つ彼のことが面白いのと同じように、彼も自立した自己を持った俺が面白いのだと気付いた。
 この考え方に切り替えてから、かつてより自分の捉える世界が広くゆとりあるものになったと感じている。この2LDKの部屋は2つの惑星系を収める大きな小宇宙に変わったのだから。

図3 隣り合う2つの惑星系

(この投稿は2024年4月下旬に書いた文章に,2026年1月に図解を描き足して掲載しています。)

□ 車の中の時間

車の中の時間

 人が死にたいと思うときは、どんなときだろうか。
大きな失敗をした時だろうか。自分の人生に絶望したときだろうか。大事な人が自分の前から居なくなった時だろうか。後悔の多い自分の人生を振り返ると、死んでしまいたい程に落ち込むことが何度もあった。けれど、自分が本当に1番死んでしまいたかった瞬間は、その落ち込みの中には無い。

 同居している友人と一緒にラーメンを食べに行った。夕方が終わり夜が始まる頃だった。休日だったが、何でもない普通の日だった。目的の店が少し遠いからと、彼は車を出してくれた。何度も行ったことのあるいつものラーメン屋で、いつも通りに美味しいラーメンを食べて、店を出る頃には辺りはすっかりと暗くなっていた。あとはまた車に乗って、家に帰るだけのよくあるいつもの休日だった。
その日はなぜか、彼の運転する車に揺られながらぼんやりと「今日はまだ帰りたくない」と思った。そのことを伝えると、満腹で機嫌の良かった友人は快く迂回した道を選んでくれて、いつもより少し遠回りをして帰ってくれた。ほんの少しの時間の小さなドライブだ。お互い話すことは特に何もない。車に乗っていると外の音は閉ざされて、彼の陽気な鼻歌で車内が満たされていく。小さい頃の記憶だが、父は運転しながらよく歌を歌ってくれていた。幸福な記憶だ。そしていまも、その幸福と同じ匂いのする車に乗っている気がした。自分の中に湧いた多幸感がどんどん加速していく。窓から見える景色もどこか遠い他の誰かのもので、通り過ぎていく風景も、対向車も、偶に聞こえるウインカーの音も俺からは遠く離れていった。この世界には、俺と、友人と、彼のうたう歌だけになった。この小さな普通の日常が自分にとってはとても大きな幸福のように感じられ、ままならない自分の人生で享受できる幸福の最大点は此処なのだと、この小さな車の中だけが世界の全てのようだと本気で感じていた。
この幸福を終わらせたくない。このまま突然、大型トラックと衝突して死んでしまったら。そうしたら、この小さな車の中が永遠になるかもしれない。終わらせたくないからこそここで終わりにしてしまいたい。この幸福な時間を世界から切り取って全部車の中に閉じ込めてしまいたい。
 そしてその時気付いた。自分が死んでしまいたいと感じる瞬間は絶望した時ではなく、幸福に包まれていると強く実感した時だ。

 そんな不謹慎なことを考えている人間を隣に乗せているとも知らずに、友人はゆるやかに遠回りをしながら俺達を家へと運んだ。車はゆっくりと見慣れた住宅街に入り込む。もうすぐこの小さなドライブは終わる。
俺と友人は仲の良い普通の友人で、ただ、それだけだ。彼は自分の人生に不満はなく、毎日を楽しんで充実させて生きている。友達もそれなりに多く、家族を大切にしている豊かな人間である。そんな人間が、突然精神不安定になった隣人の自己中心的で感傷的な衝動に巻き込まれ殺されるべきではない。
 自宅の駐車場に着き、ドアを開けると外の空気の匂いがした。車から降りドアをゆっくりと閉めて、俺は“普通”に戻った。

□ オジギソウ

オジギソウ

 小学校に上がったばかりの頃、オジギソウという植物が好きだった。手で触れると葉が一枚一枚順に閉じて下に垂れる反応の様子が子供心をくすぐり、鉢を買ってもらって自宅で何度も何度も触った。
「真紘君、お水はそんなにあげなくても良いんだよ」と周囲から心配されることもあったが、まだ子供だった自分は、“沢山水をあげたほうが良いに決まっている”と思い込んでおり、熱心に毎日何度も水をあげ、見事に根腐れを起こし枯らしてしまっていた。後になって知ったが、オジギソウは寒さに弱く日本の冬を越すことが出来ないらしい。そんなことも知らずに何度もめげずに購入しては枯らしてを繰り返した経験がある。

話は変わって、自分には昔、精神が不安定な方から異常な執着を受けることがあった。
オンライン上で同じゲームで一緒に遊んでいくなかで、毎日長時間通話をしたりしているうちに、依存関係へ発展してしまっていたのだと思う。最初は普通の友人のような関係でも、そういう方々の場合は徐々に度が過ぎた我儘な態度や過度な要求をしてくるようになり、最終的には相手を完璧にコントロール出来ないことに苛立ち、自分の前から居なくなってしまう。
そんな自分勝手に振る舞う人のことを過度に気をかけなくて良いんだよ、と言ってくれる友人も居たが、感情のコントロールが出来ずに助けを求める人がいざ自分の目の前に現れるとどうしても声をかけてしまうし、過度な要求にも出来る限り応えてしまっていた。そしてそれが相手の要求をどんどんエスカレートさせて、最後は破綻する。
ある時そうした自分の未熟な行動が、オジギソウに水をあげ過ぎてしまう子供の頃の自分と少し重なっているのではないかという皮肉に気付いた。
気になってつい触り過ぎてしまうし、そのほうが良いのかもしれないと、つい水をたくさんあげてしまう。
そうやってまた“オジギソウを育てている”のではないか、と。

そんな出来事から数年、またしても“オジギソウの彼ら”に似た人物が現れた。特徴や振る舞い、他者に対しての依存の仕方が酷似しており、これまでの事情を知っている友人は「またオジギソウを育てているんじゃないの」と茶化しながらも心配してくれた。
もう昔の自分ではない。適度な距離を保ちながら、友人としての関係を築いていけたらと考えた。そしてそれが楽しく、長く続くものでありますように。
そんなことを考えながら、趣味で描いている創作の資料として誕生花を調べていたついでに、ふと、身の回りの人物の誕生花を調べた。
彼の誕生花は奇遇にも、オジギソウだった。

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